 
町の視線ひとりじめ
歴史と豊かな自然、新しい出会いの町
西有家町 |
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にしありえちょう (ながさきけんみなみたかきぐん)
西有家町 (長崎県南島原市) |
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西有家町は、長崎県島原半島の南側に位置し、東は有家町に西は北有馬町に接し、北は小浜町雲仙、南は有明海を望む自然豊かな町です。 |
| 位 置 |
北緯32度38分56秒〜32度43分23秒
東経130度14分48秒〜130度18分4秒 |
| 面 積 |
28.80 ku |
| 人 口 |
8,757 人(男4,069人 女4,688人) |
| 世帯数 |
2,558 世帯 |
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「ア」2個で「西」の字形に構成、中央は「エ」波頭を配して漁業、海運の便利よく諸産業の発展する町姿を象徴、円は町民の和を、羽は躍進を表す。 |
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西有家町の花
「ヤマツツジ」 |
西有家町の木
「ヒノキ」 |
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霊峰高岩山/紺碧の海・輝く星空・美しく豊かな自然にはぐくまれた町・
西有家、わたくしたち西有家町民は、未来をになう家族としてみんなの
しあわせと希望に満ちた郷土を築くため町民憲章を定めます。
一、自然と共に生きる美しい町をつくります。
一、笑顔のたえない、健康で明るい家庭を築きます。
一、心と心がかようあう、やさしさのある町をつくります。
一、感性豊かな教育・文化の町をつくります。
一、未来へつながる活力ある町をつくります。
平成五年四月二十七日制定 西有家町 |
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建保三年(1215年)に藤原経登が高来群の地頭職となり、日野江城を築き、のちに有馬氏と改姓して以来、慶長十八年(1613年)までは有馬氏の領地であった。
慶長十九年(1614年)七月、日野江城主有馬直純は、幕府の命により日向延岡に移封されてしまった。以後三年間は、後任の城主が決定されず島原半島は幕府の公領となり大村、鍋島、松浦の三藩による委任統治領となった。
西有家方面は佐賀鍋島藩が統治することになり、佐賀から出向した代官が支配した。
元和二年(1616年)六月、松倉豊後守重政が五条城から島原へ入府、島原四万石の藩主となった。寛永十四年(1637年)十月、松倉勝家の時に島原の乱(*注1)が勃発したが同十五年二月二十八日、一揆軍が立て籠もった原城が陥落したのを最後に、乱は終息した。しかし、勝家はその責めを問われて島原藩主を改易された後、斬罪に処せられた。
寛永十五年(1638年)から寛文八年(1668年)までは高力攝津守忠房が治めた。忠房は、島原の乱で荒廃した領地に移住民の招致を九州各藩及び天領などから行った。領主は、その後松平氏、戸田氏、松平氏となり松平氏が明治維新まで治めた。
現在の西有家、有家は当時有家村といわれ一つの村であったが、寛文五年(1665年)に有田村、町村、隈田村の三村に分かれ有家三カ村と呼ばれていた。
明治四年(1871年)、廃藩置県により島原県となり同年十一月に長崎県に合併される。明治十一年、町村制により高来郡が南北に分かれ南高来郡となった。
明治九年(1876年)、有家三カ村を隈田村五名(里坊、須川、龍石、長野、久保)のうち久保名を除き及び町村四名(慈恩寺、見岳、中須川、小川)のうち慈恩寺名、見岳名を合わせて西有家村とし、他を東有家村とした。昭和二年(1927年)四月、町制を施行し西有家町となる。
平成18年(2006年)3月31日、近隣、深江町、布津町、有家町、北有馬町、南有馬町、口之津町、加津佐町と8町合併、長崎県南島原市(人口約54.000人)となる。
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| (*注1) 「島原の乱」については原城があった現在の「南有馬町ホームページ/原城・島原の乱情報」に詳しい資料があります。 |
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